糸井重里がテレビ番組でこんなことを言っていた。
本気になれるから。
夢が大事なんじゃなくて、本気が大事なんですよ。
遠すぎる大きな夢を語っているうちは、中途半端なことを始めるけど、本当に本気になったときは風のなかに出ていかないといけない。
だから、夢を語る自分に対して、それを思った自分って何それ?っていうように、今いる位置での、自分自身に対する問いかけのほうが大事だったりするんですよね。
もしもそれで、オレ嘘ついてた、って気が付くとしたら、本当に面白くなる。
学生の頃、畑正憲ことムツゴロウさんに質問をした時も、こんな言葉をもらった。
僕はクソするときも一生懸命にしているよ。
今日はこんなのが出たってね。
世の中にあふれている心の問題は、質問することによって、言葉によって解決することができる、と思いこんでいる人が多いかもしれない。
でも実は、もっと具体的な時間によって、解決してゆくもののほうが多いのではないだろうか。
誰かと一緒にいる時間だったり。
ジョギングをして汗をかいたら悩みがふっとんでしまったり。
‥まあ、ともかく、夢がないという問題について、もうちょっと考えてみよう。
本気、と言ったり、一生懸命と言ったり、夢のあるなしではなくて、熱量の問題かなあ、と思ってみたりもする。
おそらくこの反対は『興味がない』ということだろう。
ずいぶん前に、不登校ぎみの中学生に出会ったことがある。
読書やテレビはもちろん、遊びにも興味がなく、将来に対する目標もないようであった。
昼間からカーテンを閉めて、コタツに身体をうずめている姿が印象的だった。
それって単純にエネルギー不足、ということだから、また別のアプローチで対処すべき話になってくる。
エネルギー不足問題、に関してはまた別に記事にまとめていきます。
あとはそう。
僕もそうだけど、基本的に自分のこととなると、客観的にアドバイスしてあげることが難しくなる。
もしも同じような悩みを抱えた友人から
と相談に持ちかけられたなら、冷静にアドバイスしてあげられることもあるはずなのである。
そんな視点で、思考を整理してあげると、この『夢がない』という問題を、より冷静に理解することができるだろう。
夢がないと職業が見つけられない?
ためしに、ちょっと想像してみた。
僕もそんな夢って言えるものはないよ。
夢がないので、選択に困ってしまいますけど。
例えば、子供が好きだから、学校の先生になりたい。
と夢を持ったとする。
けれど、実際になってみて、拘束時間は多いし、保護者との対応にストレスがたまるし、そんなに密に子供たちと関われるわけじゃないし、給料もそれに見合ってないし、もうシンドイっす!
ってなる可能性もあるよね?
夢を職業かなんかと勘違いして、それを軸に人生を設計しようとしてしまったことが、そもそもの間違いなんじゃないかと僕は思ってる。
僕も昔は『漫画家になる!』って息巻いてた頃があるからね。
でも、大事なのは、どういう気持ちを味わって毎日を過ごしたいか?という感情面を軸に、人生のプランを立てることだと思う。
子供と接している時が楽しい
という感情が人生の中にちりばめることができるなら、別に学校の先生を目指す必然性はないわけだよね。
・ストレスがめっちゃたまる
・自由に使える時間が少ない
・お給料が少ない
ということも、どういう気持ちで毎日を過ごしたいか?
という感情面を作っているわけだから、このことも重大に踏まえて、設計していったほうが良いんじゃないだろうか?
・ストレスがたまらない
・自由に使える時間がある
・納得できるお給料の額である
こういう条件のお仕事につくことを目標にして(あるいは仕事を作ることを目標にして)
空いた時間で、子供と接する、ということを趣味でもボランティアでも副業でもやればいい、と極端な話、思うわけですよ。
そういう意味で、夢がない、好きなことがない、というのはベースとしては、とても自由度が高いと言えると思うけどな。
得意なことや好きなことがあると、それを活かそうとしてしまいがちだけど、それで選んだ選択肢の先が、その他のストレス感情を多大に生んでしまった!ということもあり得る話だからね。
だから、夢がない、ことそのものは、問題ではなく、むしろ自由に選択できる幅を持っているというアドバンテージ、だと思うよ。
結局のところ、夢がある、夢がない、という一つの尺度が、幸福の条件であるかのように誤解されているのかもしれない。
‥と個人的に僕は思うのだ。