最近、徳を積むということをよく考えるようになった。
そして日常会話においてもなぜか最近「徳を積む」というフレーズが飛び交っている。
なので今回は、徳を積む、ということについて、ここにいる青二才がエラそうなことを書いてみようと思う。
そもそも、インターネット上で自分のメディアを作るようになってからというもの、自分の持てる能力や才能、持ち味などを必要としている方が世の中にいるんだ!と、実感するようになった。
例えば、僕は数学の入試問題を動画で解説したものをウェブ上にアップしたことがあるが、そこで喜びのコメントなどをいただくことがあった。
『世の中にむかって、目に見えない、なにかとってもあったかいものを放流していった』という世の中に対するじんわりとした一体感をそこで感じるのである。
それはほんとうに、些細なことでもいいんだと思う。
自分のことで役に立てることなんてあるだろうか?
と思うことがあるとしたら、それはとても成長のチャンスだ。
そう立ち止まるときは、たいてい大きなことを成さねばならぬと上のほうを見上げているのである。
そうではなくて、もっと小さなことを見よう。
「道端のゴミを捨てる」
「出会う人のために笑顔をつくる」
「明るい声を出す」
そうすれば、やがてささやかな幸せ上手になるだろう。
と、思ったアナタ!
出がらしだって、思わぬ使い道が時にあるかもしれない。
例えばここに、アメリカ文学で有名な『バビロン再訪』という名著を、森本レオが朗読したCDがある。
これなんか、これまでとても僕に貢献してくれた人生のよき相棒である。
あの「森のささやき」そのものとも言える森本レオの朗読が始まると、途端に魔法のごとく眠りに落ちてしまうのである
翌日の朝が早いときなどには重宝する一品である。
ちなみに僕はあの『バビロン再訪』の結末をいまだ知らない…
なんの話かわからなくなってしまったが
とにかく、ささやかでも人の役にたつことをする、
ということが、徳積みの具体的行動なのだろう。
人に気が付かれない徳積みを陰徳といい。
そうでない徳積みを陽徳というらしい。(…たぶん)
どっちのほうが返ってくるものが大きいとかいう話があったかもしれないが、どちらにせよ、見返りは期待しない方がいいだろう。
見返りを期待するとその感情はエネルギーとして消耗されてしまうから。
それは、せっかく積んでしまった徳をすぐに感情というエネルギーに交換してしまっていることなのだ。
僕たちは生まれてきてから今までに、無償ですでに、いろいろもらいつづけてしまっている。
そのことに対する恩返しの気持ちでなにもかも行動できたなら、きっと「見返りを期待する」という気持ちはないだろう。
…と、ここまで書いてきて
と我に返ったので、ここで筆をおくことにする。
おやすみなさい。
気が向いたら、今度はこんなフワフワした話ではなく、
「ムツゴロウさんと腕相撲して号泣した話」とか
「僕がインドで買った、色が水に溶ける仏Tシャツの話」とかいった
俗世間の話なんかをしようと思う。