今回は、因果応報、という言葉についてお話していきたいと思います。
わるいことしたら、わるいことが返ってくる
というアレね。
んでまた、これを知ったあとで、自分たちはどういうことに気をつけて生活していけばええんかいな?
ただその前に、説明のために、これからひとつの昔話をご覧いただきたいと思います。
はなさかじいさん、という話です。
それではこれを、スピリチュアル目線で読み解いていくとしましょう。
因果応報とカルマの法則をスピリチュアルに読み解く
この昔話のなかにも因果応報(カルマの法則)が見て取れるんですけど、まず注目すべきは、心優しい老夫婦もイジワル老夫婦も、やっている行動は同じという点です。
ただ、心優しい老夫婦は、自分の行動に対して、見返りを期待してはいません。
子犬を見つけて飼うときも
お墓のそばに木を植えたときも
灰を返してもらったときも
蒔いている種が、見返りを期待しない『無償の愛情』になっています。
それに対してイジワル老夫婦は、犬のためでなく、自分たちのためだけに、行動をしています。
これはつまり、こういうことです。
因果は行動ではなく、その動機で決まる。
自分がどういう種を蒔いているか?ということは、その行動の動機を観察してみる必要がある、ということです。
例えば『あざ笑う』という行為は、この世の法律から見れば、全然罪にはならないですけれど、あの世的に見れば、とんでもなく悪い種をまいている、ということになります。
なぜって、あざ笑った相手の気持ちが理解できなかった、ばかりでなく『そういった相手を馬鹿にする、という動機に基づいた行為』ですので、いつかその相手の気持ちがわからせてもらえるような出来事がやってきます。
この昔話で勘違いしないでほしいのは、欲はいけないと思ってしまうことでしょうか。
わかりやすいよう、それらを
1:成長的な欲
2:堕落的な欲
と名付けてみましょう。
2:誰が困っても、奪ってでもいいからアレがほしい!というのが堕落的な欲。
この文面だけでも、そもそも蒔いている種が違う、というのがお分かりかと思います。
2:堕落的な欲は、自分もまわりも破壊してしまう欲のこと
そんなふうに表現してもいいかと思います。
期待という執着を手放す
それと、あと一つ。
このイジワル老夫婦が蒔いた種には、『期待』というものもあったろうと思います。
この話に登場する心優しい老夫婦は『誰かのために何かをする』という自分達の行為について、一切の見返りを期待せず、素の状態でできていました。
それに対して、イジワル老夫婦は『あいつと同じことをすればアアなる』と期待していました。
これはすなわち、エネルギーを期待という感情に使ってしまった、ということです。
スピリチュアル関連の書籍を読んでいるとよく見られるのが
自らが蒔いた種は自らが刈り取る。
というカルマの法則を表現した言葉です。
ただ、もしも実りを刈り取るまでに、種を揉んでしまうなら、種はみんなくずれてしまいますよね。
行動の果実を待つあまり、まだかなあ~と、心を揉んでしまうとしたら、これもまた、せっかくまいた種をつぶしていることになるのです。
見返りを期待しないで、行動する。
今、目の前に集中する。
このことも『はなさかじいいさん』から学べることなんではないでしょうか。
執着というやつですな。
じゃあ、そういった我が出ているな、と気が付いた場合、親切にしてはいけないか、というとそれも話が違うと思うんですよね。
大事なのはこの構図に気が付いて、今の自分を受け入れてあげる(許してあげる)ことなんじゃないでしょうか。
我だろうが、なんだろうが、それで誰かに喜んでもらえる絵が見えているなら、そしてそれを自分が望んでいるのなら、僕は進んでいいと思います。
やがてゆっくりと薄皮をはがすように我をはがしていって、心から相手の喜びのために行動できるという段階に達するには、今世では足りないと思っておいたほうがいいです。
マネでも演技でもいいから、そのうち喜ばれることが快感になってくると、それはすなわち、見える景色が変わった(魂のステージが上がった)ということなのでしょう。
ただ、それが実るのは来世かもしれないし、そもそもそういったことを期待してしまっては、いいほうのカルマ(これをダルマと呼びます)の種を揉んでつぶしてしまうことになりかねません。
なので、いいことをしたら、その見返りに対して期待はせず、その一方において、そういった法則がきちんと作用していることは信頼しているといいでしょう。